横浜市金沢区に、上行寺という日蓮宗の古刹がある。
境内に「舟繋ぎの松」の跡があるところから察すると、このあたりは往時の六浦津と言われた船着き場であった。
上行寺の右脇の石段を上りきると、丘の上のマンションの前に不思議な風景が広がっている。
強化プラスチック製のレプリカで一部だけ復元移設された「上行寺東遺跡復元整備地」である。
この遺跡は、鎌倉時代から室町時代初期にかけての「やぐら群」と「建物跡群」を主体とした遺跡である。
六浦津を見渡せる丘陵の先端に位置することから、洲崎町の龍華寺の前身・浄願寺跡であると推定される。
縁起によれば、浄願寺はまさしく正嘉年中(1257〜59)忍性が住し、律を広めた寺院であった。
鎌倉にまだ拠点を得る前、このころの忍性はこの鎌倉の外港、六浦の津で鎌倉入りの準備をしていたのだった。
ここには、東国の海の玄関口として、航行する船に目印となる灯明台もあったであろう。
そしてまた、ここも鎌倉の東の境界として、極楽寺坂と同様に、市場・刑場・葬地であり、さまざまな宗派が集い、競い合う地であった。
遺跡復元地から、いったん階段を下り、左手の坂を上ると、上行寺墓地の上の尾根に出る。
まだ手つかずの遺跡が眠っている笹薮をかきわけると、横浜八景島シーパラダイス方面に、市街地に埋没しそうな平潟の海を望むことができる。
この山中の聖地のどこかに兼好法師の草庵があったのだ。
上行寺は南北朝時代応安3年(1370)ごろ在地の豪商・六浦次郎景光(日荷上人)が下総中山法華経寺の3世日祐に帰依して建立した寺院である。
「江戸名所図絵」で、「もと真言宗で金全寺と号した」とある。
これは中世文書にいう「六浦坊」で、六浦氏の持仏堂から「坊」に発展しさらに寺院となったと推定されている。
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